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第3回「科学と社会」意見交換・交流会
結果報告(ゲスト:哲学者の野家啓一さん)

文責:大草 芳江 (2009年6月10日) カテゴリ:「科学と社会」意見交換・交流会(13)

 「科学と社会」意見交換・交流会とは、「科学と社会」をテーマに、毎回各界から多彩なゲストを迎え、宮城の日本酒を交えながら、ざっくばらんに議論するニュータイプのサイエンスカフェです。「科学と社会」についての捉え方は、立場によって異なります。ゲストが「科学と社会」をどのように捉えているのかお話頂くところから会はスタートし、その切り口から、ゲストと参加者で活発なディスカッションを行います。


 第3回目となる今回は、哲学者の野家啓一さん(東北大学文学研究科教授、東北大学理事)をゲストに迎え、約20名の参加者とディスカッションを行いました。野家さんは、言葉を分析することを通じて、概念、事物あり方、ものの見方・考え方、理論のしくみを追求していくことで、近代科学の成立と展開のプロセスを、科学方法論の変遷や理論転換の構造などに焦点を合わせて研究している方です。


 本会は、今回の切り口について、野家さんからその意図をお話頂く講演からスタートしました。後半の2時間は、宮城の日本酒も交えながら、立場の異なる多様な参加者が、ゲストの野家さんにそれぞれインタビューをするような形式で意見交換をし、ゲストの持つ「科学と社会」像が多面的に浮き出ることを目指して構成しました。

 本会は、明確な落としどころをつくることを主目的とせず現状認識を主な目的としています。参加者からは「今の時代だけを見ていると、科学は絶対的なもののように思えるが、時代によって、そもそも科学の捉え方が違うことに驚いた。そもそも科学とは、社会との関係性の中で位置づけられるものであることがわかった」などの声がありました。

 次回は、7月4日(土)「学都仙台・宮城サイエンスデイ」内で、経済産業省東北経済産業局局長の根井寿規さんをゲストに迎え、「特別編」として開催いたします。※通常編とは、形態や規模が異なりますことを、予めご了承下さい。

日時 2009年6月6日(土)18:30~21:00(開場18:00)
場所 東北大学百周年記念会館(川内萩ホール)会議室(仙台市青葉区川内40)
司会 大草芳江(natural science 理事、宮城の新聞)

「科学と社会」意見交換・交流会の詳細につきましては、こちらをご覧ください

ゲストのプロフィール

野家 啓一 氏(哲学者、東北大学文学研究科教授、東北大学理事)

1949年仙台生まれ。宮城県仙台第一高等学校卒業、東北大学理学部物理学科卒業。東京大学大学院科学史・科学基礎論博士課程中退。南山大学専任講師、プリンストン大学客員研究員などを経て現在、東北大学文学部教授。専攻は科学哲学、言語哲学。近代科学の成立と展開のプロセスを、科学方法論の変遷や理論転換の構造などに焦点を合わせて研究している。また、フッサールの現象学とウィトゲンシュタインの後期哲学との方法的対話を試みている。主な著書に、『言語行為の現象学』『無根拠からの出発』(以上、勁草書房)、『物語の哲学』(岩波現代文庫)、『科学の解釈学』(ちくま学芸文庫)、『パラダイムとは何か』(講談社学術文庫)など、多数。1994年第20回山崎賞受賞。

ゲストの切り口

「科学と社会」をめぐる問題は、20世紀になって浮上した。20世紀前半の「アカデミズム科学」の時代は、科学は社会から切り離された、所謂「象牙の塔」。科学者は、個人の興味・関心に基づいて、それぞれ単独で研究を進めていた。天文学者の木村栄(水沢緯度観測所初代所長)は研究に没頭する余り、日露戦争の勃発すら知らなかったそうだ。

 しかし、少なくとも20世紀半ばには、科学が理論として自己完結する時代は終わった。特に第二次世界大戦後の科学は、個人の好奇心に基づく科学ではなく、科学者の叡智を結集し、「ビックサイエンス」と呼ばれる巨額な予算を使った国家プロジェクト研究が主流となり、科学と社会は切り離せないものとなった。そのため科学者には必ず、成果とアカウンタビリティ(説明責任)が求められるようになった。

 これまでは実験室は象牙の塔の中にあり、そこで発見された理論や成果が社会的影響を持つまでには、タイムスパンがあった。しかし、科学技術の研究開発成果が市場と結びつき、科学が社会で応用されるまでのサイクルが非常に短くなっている。

 現代社会においては、文系の人間は最低限の「科学技術リテラシー」を持つことが必要である。例えば臓器移植法の改正案を議論する上でも、生と死に対する共通の理解がなければ議論はできない。逆に理系の人間は「社会文化リテラシー」をもつ事が必要である。科学者は自分の好奇心に基づいて研究して良いが、自分の研究成果がどういう結果をもたらすか、文明の中でどのような位置づけにあるか。それらを教養として持つべきであろう。

野家さんにご用意頂いた、「科学と社会」のメモランダ

1.近代科学の生成と発展
 ・12世紀ルネサンス
 → 翻訳運動(ギリシア語~アラビア語~ラテン語)
 → アラビア科学の移入(実験的方法:錬金術、医学)
 → 修道院附属学校(schola)と大学(university)の誕生
 ・第一次科学(16世紀半ば~17世紀)
 → 科学的方法の確立:「論証」と「実験」の結合
 → コスモス(cosmos)の解体:アリストテレス的世界像の崩壊
 → 科学と宗教の軋轢:ガリレオ裁判
 ・第二次科学革命(19世紀中葉)
 → 「科学者(scientist)」の登場:職業としての科学
 → 科学の専門分化と専門学会の成立(ジャーナル、レフェリー、ピアレビュー)
 → 科学の社会的制度化(高等教育機関、企業内研究所)

2.科学の変貌とテクノサイエンス
 ・アカデミズム科学(20世紀前半)
 → 実験室の設立と「象牙の塔」
 → 科学者個人による好奇心駆動型の科学研究
 → アインシュタインとキュリー婦人
 ・産業化科学(20世紀後半)
 → 科学と技術の結合:ビックサイエンス
 → マンハッタン計画とブッシュイズム(戦後アメリカの科学技術政策)
 → プロジェクト達成型科学と社会的説明責任(accountability)
 → 科学者から科学企業家(scientific entrepreneur)へ
 → オッペンハイマーとレイチェル・カーソン
 
3.科学のシビリアン・コントロール
 → 科学(者)の社会的責任
 → 「専門家支配」からの脱却:「トランスサイエンス」の拡大
 → 研究開発(R&D)と市場の回路:実験室と社会の連続性、社会的リスク
 → 科学技術リテラシー:市民、文系学生
 → 社会文化リテラシー:科学者、理系学生
 → 双方向コミュニケーション:コンセンサス会議(デンマーク)の試み

野家啓一さんへのロングインタビュー記事

※【宮城の新聞】
哲学者に聞く :野家 啓一さんインタビュー(東北大教授)/科学って、そもそもなんだろう?
で詳しくご覧になれます。

今回用意した、宮城の日本酒

日輪田 特別純米 雄町 19BY生詰 65%
橘  屋 特別純米 雄町 20BY生   60%
墨廼江 純米吟醸 雄町 20BY生詰 55%

【ポイント】
・米は3本とも「雄町」。精米歩合65%・60%・55%の比較も可能。
・一年寝かせた酒(19BY=醸造年度が平成19年)も比較可能。
・時間経過に伴う温度変化でも、味の変化を比較可能。

【協力】
阿部酒店

参加者(申し込み順)

【ゲスト】
野家啓一氏
哲学者、東北大学文学研究科教授、東北大学理事
小松健一郎ACL
小粥幹夫 東北大学工学部情報知能システム総合学科 特任教授
伊藤芳春 宮城県鶯沢工業高等学校 校長
鈴木千登世 東北大学病院 糖尿病代謝科
川原武裕 科学技術振興機構 社会技術研究開発センター
柿崎真沙子 東北テクノアーチ
小原有策 (独)産業技術総合研究所東北産学官連携センター テクニカルスタッフ
澤村範子 仙台市立愛子小学校PTA役員
以下NPO法人 natural science メンバー
遠藤理平代表理事
林叔克東北工業大学特別研究員
大草芳江宮城の新聞
大野誠吾東北大学大学院理学研究科助教
八重樫和之東北大学工学部4年
佐瀬一弥東北大学工学部3年
結城麻衣東北学院大学大学院人間情報学研究科1年
高城敦子東北学院大学教養学部3年

19:20~21:00
主なディスカッション内容(一部抜粋)
(―は参加者、その他は野家啓一さん)

―工学部4年生。「科学技術リテラシー」について、専門分野は深く理解に時間がかかる。一般の人が理解するのは難しいのでは。

 先端の科学理論を皆が先端まで理解する必要はない。ただし「科学によって問うことはできるが、科学によって答えることのできない問題群からなる領域」がいろいろなところで出ている。具体的な問題が起こった時に議論するには、「素人でわからないので、専門家にお任せします」という態度ではなく、多少なりとも自分で勉強して理解する努力が必要。その上で、専門家の話を聞いて判断すべき。

―「科学技術リテラシー」について、全く知らない分野に対して、アレルギー反応が起こる傾向があるのでは。

 少なくとも新聞に書いてあることが理解できる程度で良いのでは。一方、専門家は専門用語を使う傾向がある。媒体となるジャーナリストや科学技術コミュニケーターが成熟し、それを橋渡しする必要があるが、特に日本ではその育成が遅れている。

―工学部3年生。「科学技術リテラシー」を一般の人がどう捉えているのかが、わからない。科学が身近ではない人は、何をどうすれば良いのかが、全然わからないのでは。新聞だけで良いのだろうか。例えば、僕自身の研究成果が出て思うことがあっても、もっと伝える機会がないと駄目だと思うのだが。

 NPO法人natural science が重要な役目を果たしている。僕らの学生の頃は、科学雑誌「自然」「科学朝日」「科学読売」があったが、今は全部なくなった。科学ジャーナリズム、日本は弱い。一般の人たちに、今の科学の状況や最先端の研究を、もちろん深いところまでわからなくても良いが、伝える努力をしなければならないとは思う。

―研究者へインタビューする機会が多い。研究者が一般の人へ研究内容を伝える取組みは、ここ最近、一般的になりつつある。しかしながら研究者自身が、それをポジティブに位置づけられない場合、本筋である研究に対してもマイナスの影響があるように感じている。

 研究者が忙しくなり、本来やるべき仕事に時間を充分に取れない悩みがあるかもしれない。ただ研究者は大抵、コミュニケーションも下手だし、啓蒙活動も好きではないと思う。むしろサイエンスコミュニケーターのように、コミュニケーションが得意な人をグループに加えるなどして、自分の研究や考え方を市民へ伝える活動をすれば良いのでは。

―大学教員。サイエンスコミュニケーターがいるのは、特定のグループだけ。大学理事の広報担当とのことで、サイエンスコミュニケーションに対する東北大全体としての取組みはあるか。

 東北大サイエンスカフェを広報で担当。ただし専門家を雇うお金の余裕がない。広報課の事務職員は、2、3年で部署が変わるため、長期的に担当できる専門家を雇える余裕があれば良いのだが。

―大学教員。サイエンスコミュニケーションをする専門家が他にいると楽なのだが。相談にのってもらえるだけでも良い。

 サイエンスカフェでは、ボランティアで毎回手伝ってくれる大学院生もいる。その中から、良いサイエンスコミュニケーターが育つと有難い。

―教養学部3年。双方向的コミュニケーションが大切なのはわかる。しかしながら話を聞く必然性や危機感がないと、話を聞こうと思わないし、たとえ聞いても「へ~そうなんだ」で終わってしまう。話をしようとする前に、一人ひとりが必然性を感じる機会を与える必要があるのでは。

 難しい。こちらから強制するわけにもいかない。ただ新型インフルエンザでは、皆マスクを買っている。よほど自分のことにひきつけられるようなものでないと、うまく興味を持ってもらうのは難しい。それをどう掘り起こしていくか。ただし働き盛りの方が、イベント参加は難しい。比較的時間に余裕がある方からネットワークを広げることが大切では。定年退職された方や主婦に対して、社会人専用のコースを設定するなど、なるべく垣根を低くして、興味を持ってもらえるようなシステムを大学としても考えなければならないと思う。

―研究者。日々研究に従事する者が、どのように社会との接点をつくっていけば良いのか、議論し行動している。研究者にとっての「社会文化リテラシー」は、研究者が自分でそれをやる必然性を感じて、「社会科学リテラシー」を身につけていくことだと解釈した。ただ一方で、日々の研究そのものが、あくまでビックサイエンスの中で役目役割を果たしているに過ぎない。すると「社会文化リテラシー」が必要だと言われても、個人として必要性を感じない。その乖離を、どう考えるか。

 難しいこと。しかしながら一方では科学者であると同時に、一方では家庭人であり市民としての立場がある。そのようなところから少しずつ、社会との接点をつくっていけば良いのでは。

―研究者の立場から、社会文化リテラシーの必然性について。自分の研究が社会に対してどのような影響を与えるのかを考える必然性は、プロジェクト型研究の中ではそもそも感じないのでは。

 社会システムの中で、自分の研究はどのように社会の中で役割を果たし、それが結果として様々な影響を及ぼすかは、少し引いて考えれば、見えてくるのでは。もちろん研究に没入している間は、研究開発に没頭せざるを得ないが、そうではない時間に、一歩退いて自分がやっていることを見ることで、社会とのつながりが、ある程度見えてくる。経済や政治と科学は全く無縁ではないので、どこかで切り口や接点を見つけていくことが大事。僕らの学生の頃は、よく「専門馬鹿」と言われた。専門家であると同時に市民としての様々な活動がある。そこで接点を見つけようと思えば見つかると思う。ただ、見つけようと思うきっかけを探すのが難しいのだと思う。

―大学教員。逆に、社会文化リテラシーがあるおかげで、本来好奇心に基づいて行っていた研究の進む道が、社会の要請に沿った形になりはしないか。ビックサイエンスが主体となった21世紀では、それは仕方がないことなのか。

 確かに、社会文化リテラシーがあるが故に、経済的に有利なほうにシフトすることもありうるが、同時に社会的弱者に目が向いて、自分の研究にシフトすることもありうる。必ずしも一面ではないだろう。

―科学者のアカデミズム的な好奇心と、社会の要請が、乖離しているのが最近の傾向では。そうなれば学問体系の進め方・見え方も変わるのでは。

―これから理学部的なものは、今後消えてしまうのだろうか。自分がやりたい研究と、申請書で書くことの乖離に、研究者は日々苦しんでいる。

 理学部がなくなれば、私のいる文学部もなくなるだろう。大学の大学たる所以は、理学部や文学部があるところだと僕は思っている。中世の大学は、神学部・法学部・医学部の上級三学部からなり、いわゆる理学部や文学部は、哲学部ないし学芸学部と呼ばれる教養部にいた。上級三学部の方は、職業と結びついている。ところが19世紀フンボルトがベルリン大学を設立。フンボルトは研究と教育の独立性、いわば研究の自立性を非常に強く言って、それがある意味、現在の大学の原型になっている。大学というのは、人格陶冶が一番重要だとフンボルトは言っている。しかし今、フンボルト的な大学が消滅しつつある。大学が大学たる由縁は、基礎研究。ただちに応用や社会的利益に結びつかない、つまり市場原理からは相対的に独立したところで、好奇心に基づき自由に研究を進めるところにある。それが市場原理に巻き込まれつつあるのは、大学の危機である。そもそも大学は、市場原理から一歩退いて、研究の自由や教育の自由を確保している。本来ならば大学は、長期的に社会へ還元できる組織である。2、3年後の目先だけ考えて大学が研究をするならば、それは大学の自滅のはじまりだ。理学部や文学部、長期的には自然の謎を解明する、ひいては人間の自己理解を深める面が学問にはある。それがなくなれば大学どころか、社会全体が駄目になると僕自身は考えている。

 学術会議でも「日本の展望」という報告書をまとめつつある。その中で基礎科学分科会では、理学部的・文学部的な基礎科学を日本でどう守り育てていくか、ひとつ提案しようとしている。僕のいる文学部ですら、哲史文は、学生は減っている。逆に社会学や心理学は、グローバルCOEもとれているし、華やかな分野になっており、文学部の中で格差社会になっている。それでもなお文学部の中には哲史文のような「無用の用」、何の役に立つかはうまく言えないが、源氏物語を誰も読まなくなった社会は、やはり悲しい社会だと僕自身は思っている。それは大学として、大学のアイデンティティをなすところ、守り続けていかなければならないところだと思っている。ただどうしても今、外部資金を獲得できるところや、あるいは産学連携ができるところに目が向いて、そちらの方向に大学自体がシフトしている状況。厳しい状況ではあるが、理学部的なところ、文学部的なところは、大学は最後まで守らなければならない。

―理学部的なところや文学部的なところは、初等教育や中等教育との親和性が高いと思っている。どうしても産業につながりがちなところは工学部にまかせ、理学部や文学部は逆に、初等教育や中等教育のバックアップにきっちりと結びつくことで、社会とのgive & take が成り立ちうまくいくのでは、というのが個人的な意見なのだが。

 それはひとつの良いアイディアかもしれない。ただ今、中高は大学受験にシフトしているため、受験に役に立たないことはあまり勉強しない。源氏物語も、入試に出そうなところだけ読んでいる。フランスでは中学から哲学教育をやっているが、日本では細々と倫理社会があるだけ。しかも大学受験の科目になっていないから、誰も一生懸命勉強しない。私は以前、日本哲学会の会長をしていたが、日本哲学会でも最近ようやく、高校での哲学教育を本格的に導入しようというシンポジウムを先月開いた。中学高校くらいから、基礎的な分野の教育をやっていく。そのためには大学入試を変革する必要がある。基礎的な力を測る試験をしないと、なかなか中学・高校では置いていかない面がある。

―情報研究科大学院1年。「科学技術リテラシー」について、中学・高校で習うところがベースになるはずだが、それが自分の中でつながっていないと感じている。受験のために暗記さえすれば良い現状があるためだろう。そのつながりをつくるためには、どう変わっていけば良いと考えるか。

 文科系学部に入れば理系からはおさらばで、科学技術リテラシーにつながらないことは確かにその通りだと思う。教養教育のカリキュラムを再編成すべきだ。科学史や科学哲学など比較的とっつきやすい話題を通じて、自然科学のものの考え方やしくみを導入し、興味があれば物理学や数学をとるしくみをつくれれば。しかしながら教養部がなくなり、システマティックにやれないのが現状。高校からの教育につなげるような教養教育のシステムをもう一度、大学として考えなければならないと思っている。何も難しいことを知る必要はなく、新書が読める程度の知識であれば、リテラシーとしては充分。

―教養教育の再編について、似たことを考えている。今私が働いているところは、唯一、自然科学のイメージがあるJSTの中でも、社会科学の色が強いところ。ただし、国の研究開発評価に関していうと、全体的に成果の見えやすいもの、わかりやすいものばかりが評価される傾向が強い。その結果、社会科学的手法による研究から生まれる、新しい仕組みや政策提案、モデルの提示など、「成果としてわかりにくいもの」が、重要であっても、なかなか評価されにくいと感じている。そのため、政策やファンディング、研究開発評価に携わる人々が、自然科学と社会科学の違いを、ある程度リテラシーとして、少なくとも大学の教養過程レベルで知ることは、重要と考えている。しかし、どうすれば、そのようなカリキュラムを教養課程に組み込めるのか。東北大学としては、教養教育についてどのような取り込みをしているのか。

 東北大で、教養教育の再編は課題。議論の中心は、英語能力向上になりがち。社会文化リテラシー・科学技術リテラシー、頭ではわかっていても、継続的に理想的なカリキュラムを作るのはなかなか難しい。理想的には先生を入れ替えれば良いが、現実的には今いる先生を組み合わせて、やるしかない。すると各部局で完全な縦割りで、片手間でつじつま合わせてローテーションするしかない。教養学部に責任をもつところがなくなった。東大は教養部を残したが。

―小学校のPTA役員。学校現場では学力低下が問題視されており、フィンランドメソッドのように総合的な力が求められている。目に見える物理的なものだけではなく、身体感覚で感じるものも含め、いろいろな側面からアプローチしてもらったときに、「本当だ」と腑に落ちる。例えばサイエンスカフェなどでも、研究者本人から研究が見えるのにプラスして、違う側面からのアプローチをしてくれる人が傍にいると立体的におもしろさがわかるし、むしろそこを一般人は知りたい。今の教育で欠けているのが、理学部に代表されるような、特に科学の基礎の部分。一方、小中学校からキャリア教育は行われており、それは必要だとは思うが、うっかりすると促成栽培的な部分が、学校現場の中にあるのではと危機感を覚えている。やはり人格形成としては、学問が必要だ。

 スクールの語源は、「スクレ(余暇)」だと申し上げたが、やはり余裕がなくなっている。科学的な真理は、どこかで美的感受性と結びつくところがある。そこの感受性が摩滅しかかっている。美意識と科学の探究心とは、結びつくところがあるのだが、それが今見えなくなっている。

参加者からのご意見・ご感想

小松健一郎様

 先ず、今まで3回開催された「科学と社会」の意見交換・交流会に参加できて、大変良かったと考えております。今後も継続して開催される事、参加し続けられる事を希望しております。

 私は、「科学と社会」の意見交換・交流会は、様々な立場・背景の方が対等に近い形式で意見交換・交流できる場になっている、と感じております。そのような場は、あまり一般的ではない場、特殊な場、貴重な場、と考えております。
 私は、一般的に多くの意見交換・交流の場は、幾つもの制約が課せられた非対称的な場になっているのではないか、と感じております。一般的によく見られる意見交換・交流の場は、一定の価値観や見方に基づいた序列がつけられた関係を前提にし、価値観や見方が共有されない事を許さない、既存の秩序を乱しかねない言動は禁じる、といった制約された場になっているのではないか、と感じております。
 私にとって、「科学と社会」の意見交換・交流会の様な場があること、そこに参加して、序列に基づいた秩序の中で特定の価値観や見方の共有を強いられる日常とは異なる時間を過ごせる事は、非常に有難い事です。

 また、私は、様々に立場の異なる者が対等に意見交換・交流する場があるという事は、個人の成長や社会の発展を促す上で非常に重要な事である、と考えております。様々に立場の異なる者が意見交換・交流する事により、散在する経験や情報や知が交換・整理され、新しい知や価値観や見方が形成され、そして共有される、と考えております。
 私は、それぞれに異なる立場・背景を持つの者同士は、優劣つけ難い、という意味で対等である、といった考えを持っております。それぞれに異なる立場・背景を持つの者同士であれば、持っている情報・知識・価値観・感じ方・意見が異なり、価値観や感じ方が共有されない以上、特定の価値観や感じ方に基づいて優劣を付ける事は無意味であり、序列を決める事が出来ない以上、お互いに対等である、と考えております。(一応、共同体の内部において序列があり立場に上下がある、という事については否定しません。同じ価値を共有している、という事を前提にすれば、共有された価値観で優劣を比べる事は難しくないでしょうから。)
 お互いを対等と認める事が出来、意見交換・交流に制約の課せられる事が少ない場は、参加者それぞれが持っている情報・知識・価値観・感じ方・意見の交換が広範に行われる事を促し、より広範で豊かな知的成果を生み出す事ができる、と考えております。

 上記のような考え方から、私は、「科学と社会」意見交換・交流会は私の成長にとって貴重な場であると認識しており、今後も継続して開催される事、参加し続けられる事を希望しております。また、その場をお借りして、生涯学習の場はどうあって欲しいか、大学という場はどうあって欲しいか、社会の諸制度はどうあって欲しいか、といった事についても皆さんと色々と意見交換してみたい、とも考えております。
 今後も、宜しく御願いいたします。

「科学と社会」意見交換・交流会のこれまでの報告と今後の予定



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